校章の成り立ちと校歌・讃歌
校章について
深志高校の校章は、「高」という字に「トンボ」が止まっている図であることは周知のとおりです。文化祭も「蜻蛉祭(とんぼさい)」です。しかしなぜ深志が「トンボ」であり、「トンボ」が深志なのでしょうか…。
なぜトンボなのか
「トンボ」と聞くと、私達は真っ先に校歌を思い出します。一般には一番の歌詞の「蜻蛉男児」からトンボのマークが出てきたと思われていますが、事実は逆で、校章ができたのが1893年頃、校歌は1922(大正11)年にできたのです(沿革を参照)。
以下、小林俊樹先生(1968~1983年在職)の『なぜ「とんぼ」なのか』(昭和57年3月5日発行された「二学年便り」から)と、渡辺恭治郎先生(1970~1982年在職)の遺稿集『一顆明珠』から『なぜとんぼがとまったか』(昭和56年とんぼ祭パンフへの掲載文)を、それぞれご本人およびご遺族の了解を得て引用させていただきました。
なぜ「とんぼ」なのか
―校章「蜻蛉」の由来―
(小林俊樹先生)
とんぼはいつとまった
大正12年2月28日発行の『校友』67号末尾に、松本中学校校歌の作詞者、当時4年生の松原威雄は「校歌付記」と題する一文を寄せている。そこには「校歌はすべて明治40年頃先輩勝山勝司氏の作られた〈蜻蛉嶋山たゝなはる…〉といふ校歌を根拠として作りました。」とあり続いて校歌の内容説明がなされている。すなわち、「(1)では校歌の徽章の由来を説いてそれを讃美し、(2)では松中の特徴否生命とも言ふべき自治を謳歌し、(3)では歴史過去、(4)では現在を歌ひ、(5)には未来に対する抱負といふようなものを歌ったつもり」だというのである。
ここで松原のいう校章の由来とは、すでにいうまでもなく、「黒潮たぎる絶東に たてり大和の秋津洲…そのうるはしき名を負へる 蜻蛉男児…」すなわち古来より日本列島の本州全体を指す「秋津洲」に、同音の「蜻蛉」(とんぼの古名)をその象徴として戴くのが、日本の中央に誇り高くあるわれわれ松中生なのだというのである。
また、昭和11年に出された、創立50周年の記念誌には「明治31年図画教師望月俊稜ノ考案ヨリ日本の別名蜻蛉洲ノ名ニヨリ、蜻蛉ノ徽章ヲ制定シ今日ニ及ブ」と記されている。制定者望月俊稜は、明治12年工部美術学校3年を終了し、明治20年から33年まで在職している。
ところが往時を物語る生徒の記念写真によれば、すでに26年頃には制帽に「とんぼ」が輝いているのである。それが、制定以前数年間の試行期間的意味合いをもって用いられていたことの証なのか、それとも、24年4月に定められた、「布地仕立とも一定の学習院型」の制服と、殆ど期を一つにして制帽、校章が制定されていたと考える方がいいのか、残念ながら極め手になる資料は目下のところ見つかっていない。
もっとも、50周年記念誌にいう「31年」というのは、「長野県尋常中学校」から、翌32年4月に「長野県松本中学校」として独立改称した時期でもあるので、改めて「とんぼ」を校章として内外に宣言したとも考えられるのである。因みに、五色の線はそれより後、34年5月「学年の識別しがたきを利用して礼を無視するの徒」(『校友』3号、明治34年6月)を根絶するため制定実施されている。
松中とんぼはどこからとんできた
それでは何故、秋津洲=蜻蛉という発想が生まれたのか。いうまでもなくその発祥は『古事記』である。すなわちイザナギ、イザナミ二神による八つの国産み伝説、その最後に生まれた「大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)」、またの名を「天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)」という、日本列島の中心、今日の本州がそれである。『日本書紀』には「大日本豊秋津洲」、そして〈日本、此をばヤマトと云ふ、下皆此に效へ〉と注記されている。この「豊秋津洲」を普通名詞とすれば、「ゆたかなとんぼの国」あるいは「豊かに穀物の実る国」の意味となる。(「豊秋津島」あるいは「洲」については、日本古代史研究の第一人者、昔深志高校の先生であった古田武彦氏の『盗まれた神話―記紀の秘密―』〈角川文庫〉第六章に、その達見が詳述されている。)
この「秋津=とんぼ」の解釈をうけて、松中とんぼがデザインされたことは間違いないが、それが望月教諭のオリジナルであったのか、そうでなかったのかを解く鍵は、『深志百年』刊行段階では見つかっていなかったのである。
この謎解きの端緒を見出したのは、渡辺恭治郎先生(社会科)である。(昭和五六年度とんぼ祭パンフレット「なぜとんぼがとまったか」参照)すなわち、明治21年4月3日創刊「政教社」発行の思想雑誌『日本人』(後の『日本及日本人』)の表紙に描かれていた4匹のとんぼがそれである。『日本人』の三文字の上に真横から見たお互い二匹と下に真上から見た二匹とが、きわめて写実的な姿でとまっている。また5号以下のとんぼは、より成長したリアルな姿で描かれていて、松中とんぼの原型を明確に察知させたのである。
政教社『日本人』と松本中学校
それでは何故「日本人とんぼ」が、長野県尋常中学校の校章として採用されたのか、思想集団「政教社」と中学校との関わりはあったのか、この点に焦点を合わせなくては謎は解けない。
「政教社」は、明治21年、三宅雪嶺、志賀重昂、井上円了、杉浦重剛ら当時の鹿鳴館的欧化主義の風潮に反対した、国粋思想の推進メンバーによって発足している。三宅は国家主義的日本主義を強調し、井上は後に哲学館(東洋大学)を創設した。杉浦は教育家として終始し、後に日本中学を創設している。この杉浦は大学南校の貢進生として英語科に入り、化学を学んだが、その貢進生仲間の仏語科に、小林有也初代校長がいたのである。また、志賀は明治17年、長野県中学校の教師として小林校長と同時期に赴任している。志賀が時の県令(県知事)木梨精一郎と大喧嘩の末、長野県を去った話はあまり知られていないが、小林、志賀両者のつながりはこの頃からである。その後志賀が『日本風景論』を著して、江湖の若者達を触発鼓吹したことはいうまでもない。
また、明治18年に札幌農学校を卒業した農学士、後に政教社の論客として活躍した弘前出身の今外三郎も、明治19年から20年にかけて、松中の教壇に立っている。
こうした少壮の文学士、農学士達の思想が、当時の中学生に影響を与えないはずはなく、しかも生徒たちが直接謦咳(けいがい)に接した今は、『日本人』第一号に「日本殖産策」を、志賀は「日本人の上途を餞す」を発表している。杉浦は「日本学問の方針」であった。以下号を追って彼らは、富国強兵策の不可欠を説き、日清両国間の紛争は、一層それに拍車をかけることになる。明治36年6月創設の「信濃舎」後の「尚志社」生みの親、松原温三などもこの影響を強く受けた一人である。
質実剛健の気風と国粋主義の風潮を育む、『日本人』の果たした思想的影響と、当時「政教社」と密接な関係にあった小林校長等の眼に、毎号の表紙を飾る四匹のとんぼがとまらないはずはなく、それを生徒職員の統一象徴(校章)としてデザイン化を望んだと考えるのは、至極もっともなことではあるまいか。
つまり、明治20年代初期の教育高揚期の校章づくりに、「日本人とんぼ」が大きく貢献したと断定せざるを得ないのである。
とんぼの尾は何故曲げられた
最後に、とんぼの尾の湾曲についてだが、これも『日本書紀』を借りよう。『神武記』の末尾である。神武天皇が大和を征服した後、「腋上のほゝまの丘に登って大和の国のありさまを眺め、まるで<あきつのとなめ>(とんぼの交尾)のようではないか」といった言葉によって、はじめて大和の国を「秋津洲」と呼ぶようになったという地名発祥伝説の一節である。まさに「蜻蛉のとなめ」図そのもののリアリティーが、松中とんぼの尾を丸く曲げるヒントとなるのである。奇矯にすぎた推論であろうか。あるいは、秋津洲すなわち本州の湾曲形状そのものがヒントとなって、「中」を抱く発想につながったものとの推論もできるのである。
昭和57年2月1日
追記
過日、明治三十一年(第十九回)卒の故浅輪昌之氏遺族より寄贈された「紀章」と記された記念メダル(写真参照)が、あるいは明治三十一年の望月教諭が考案した校章そのものだったと考える事はできないだろうか。校章制定記念のメダルをその年の卒業生が所持していても何の不思議もないからである。
今日ある校章のデザインは、この紀章を基に、後任の武井真澄教諭がより整った形に改めたものと推測するのは極めて容易である。何故ならば武井真澄教諭は、明治三十八年発足の日本山岳会のバッチデザイン(現略章)の考案者であり、その道の達人だったからである。以上を確認する手立てはないが、真相に近い推論ではないかと、心中ひそかに期するものである。
2003年5月20日
なぜとんぼが
とまったか
(渡辺恭治郎先生)
この三月、雨宿りに飛び込んだ駒場公園の日本近代文学館の第三室で、陳列ケースをぼんやり眺めていて一瞬、これだ、と思いついたことがあった。明治21年4月に出た政教社の雑誌「日本人」(後の「日本及び日本人」の第壱号であった。民友社の「国民の友」と並べて置かれたその表紙には写実的なトンボが四つ、真横からと真上から見た姿で日本人の三文字の上下にデザインされている。作者は不明だが、誌名に因み日本の古名を念頭においてのものであろう。
松本尋常中学校の校章がなぜトンボになったのか。「明治31年図画教師望月俊稜ノ考案ヨリ日本ノ別名蜻蛉洲ノ名ニヨリ、蜻蛉ノ徽章ヲ制定シ今日ニ及ブ」(長野県松本中学校創立50周年記念誌」昭11)とあるが明治26年の生徒の記念写真の帽子にはすでに用いられている。窪田空穂(明治24年入学)の三年生の時友人と撮った写真にも校章は帽子についている。因みに制服は明治24年新入生から生地と仕立て方が定められた。制帽、校章の誕生もこの頃のことと考えるのが当然であろう。
それでは「日本ノ別名」が何故松本尋常中学校と結びついたのだろうか。一つの試みをしてみよう。政教社の中心は三宅雪嶺、杉浦重剛、志賀重昂、井上円了等である。志賀は「日本風景論」で知られる地理学者だが明治17年の一年間、長野県中学校(校長小林有也)時代の教壇に立ち、初代校長と同時期に赴任した。「日本人」創刊号の巻頭は志賀の「日本人の上途を餞(はなむけ)す」で毎号何かを記している。杉浦は初代校長同様藩の貢進生として東京大学で化学を学び論壇、教育事業で多様な活動をしたが、その夫人は小林有也の姉上で、校長室に掲げられているのはこの「杉浦御姉様」宛の初代校長の手紙である。雪嶺は明治43年講堂での講演に招かれ、「日本及び日本人」の内容は外国人に見せても恥ずかしくないものだと述べている。志賀も明治38年、講堂で旅順での見聞を話し「小林先生は縁の下の力持ちだ、世の中から取り持ちがないことは誠に悲しい」と述べている。円了は明治33年に招かれて講演をしている。政教社の当地の中学生、知識人士への影響も当然考えられる。例えば県内外の教育界に活躍した岡村千馬太は松原温三の主催する尚志社の松中生徒との校友で開眼し、「日本人」同人の論者に啓発され、後に松本に東西南北会をつくり、教育界に新風を注いだがこの東西南北会は「日本人」を愛読し共鳴する人々の集まりであった。
この様な事情を一望して、明治二、三十年代に「日本人」の果たした思想的影響を併せ考えると、二十四、五年頃の校章づくりに「日本人」の表紙にヒントを得て、トンボの尾を円く曲げ中の字を抱かせるに至ったのではないか、という想像は押さえがたくなる。しかも「日本人」の表紙のトンボの羽の描かれ方は第五号以降少し変り、翅脈(しみゃく)が写実的な網目から流れた線の翅脈になり、これは中学時代の校章の翅脈とよく似ているのである。望月俊稜という図画教師(明治22~33の間在職)は、28年に生まれた生徒の自主的研究会「普通学会」の席で「仏教建築ノ三大変遷」という研究発表をしている。
(渡辺恭治郎遺稿集「一顆明珠」より)