第311号 五島慶太と松本中学
9月5日の信濃毎日新聞に、五島慶太の伝記が作成されているという記事が掲載された(12面東信版)。五島慶太(1882年~1959年)は上田市に隣接する小県郡青木村の出身で、東急グループを創設するなど、大正から昭和にかけて日本の財界で活躍した人物の一人である。昨年NHKの朝ドラ「らんまん」にも登場したが、大正期に渋谷から郊外にかけての田園都市を東横線の敷設によって形成したことでも有名な五島は、その後も昭和初期にかけ、東横電鉄、東横百貨店を開設し、東急取締役社長となっている。戦後は東映、日本テレビを創設し、戦後の日本における映像コンテンツを支えてきた。また教育の分野にも出資を行い、東横線沿線の慶応大学をはじめとする文教都市づくりのために土地を提供したほか、近隣では塩尻市の信州工業高校(現在の都市大塩尻高校)を創設したのも五島である。
実は、7月に青木村より突然問い合わせがあり、松本時代の五島について資料を提供して欲しいとの依頼があった。全く何も知らない私(五島が本校に在籍していたことすら!)は、いそいで「深志人物誌」を読み返してみたところ、第1巻に、本校に在籍していたころの五島の松本中学時代の記述が掲載されていた。かつて市民タイムズの取締役をやっておられた中野幹久氏の調査と記述によるものであるが、東急王国をつくった五島慶太の、まさに「青春」の日々(下宿での出来事、友人とのあれこれ、そして…?)に触れることとなった。
五島が青木村の小学校高等科を終え中学に進学した1890年代、中学(現在の中学・高校)を取り巻く日本の学制は猫の目のように変化している。当時、1876年に創立した松本変則中学校(今年で創立148年目)をはじめ、県内各都市に郡立、町立の中学校開設が始まっていた。しかし1886年の中学校令により、一府県に一中学校、就業年限五年とする尋常中学校をおくことが定められ、長野県でも松本変則中学校に県内すべての中学が統合されることとなり、松本中学が県内唯一の尋常中学校となった。しかしこの制度も1893年に廃止され、長野県尋常中学校松本本校の他に、長野・上田・飯田に支校が開設される。五島は1895年に松本中学上田支校に入学したわけだが、支校の修業年限は3年間であり、中学での学びを継続しようとするならば、残りの2年間を松本本校に通学する必要があった。そこで1898年から2年間ではあるが、五島の松本下宿時代が展開するのである。五島は、旭町小学校近くの天白町に下宿し、お城にあった松本中学に通学していた。松本高等女学校ができたのは1901年(大正12年)で、下宿には開学したばかりの高等女学校にやがて入学することとなるお嬢さんがいた…。
というわけで、あとは、「深志人物誌」の第1巻をお読みください。深志高校図書館、深志教育会館、深志高校校長室にありますが、公立図書館にも置かれているかもしれません。