第223号 とんぼ祭記念講演の謎
【とんぼ祭記念講演が開催されました】
9月29日(木)5分短縮授業のLHRの時間帯に、「とんぼ祭記念講演」が実施されました。昨年、一昨年とこの行事は感染症の影響で中止されていますので、実に3年ぶりの開催ということになります。ということは、企画運営を行った3年生の合同協議会の皆さんにとっても、全く経験がない中、手探りでの実施だったということになります。それ以前のことを知っている生徒会の先生方に相談しながら準備を進めてきた合協の皆さん、お疲れさまでした。会場の大体育館には、今年のみしか経験のできない3年生全員と、1、2年生の各クラス10名程度が参集し、体育館に集まれない皆さんには、生の映像と音が各教室に配信されました。
今年の講師は作曲家であり、バンドネオン奏者であり、音楽プロデューサーでもある、啼鵬さんでした。講演では、ご自身が音楽の道に進んだ経緯、人との出会い、さらには自ら個人事業主として音楽活動を行っていくにあたっての業務の進め方などについてもリアルにお話をいただきました。芸術家であっても個人事業主である以上「経営」の工夫・苦労があり、いかにその中でご自分の理想を追求していくかについては、とても共感できるお話だと感じました。
そして、ここからが深志高校ならではの展開です。啼鵬さんご自身の演奏を、深志高校吹奏楽部と、そして音楽部室内楽班with有志とのコラボで演奏をしていただきました。春の芸術鑑賞でも感じましたが、一陣の爽やかな風が心の中を吹き抜けていくような思いで、2曲の演奏を聴かせていただきました。
【合同協議会と「とんぼ祭記念講演」】
とんぼ祭記念講演の企画運営には合同協議会があたっています。もちろん10年前も同じでした。合同協議会長が直接メール等で連絡を取って、講師依頼をしたこともあったかと記憶しています。そして30年前、教頭先生は3年生の時(1991年平成3年)合同協議会の役員だったそうで、当時生体肝移植で「時の人」でもあった信州大学の幕内雅敏先生に手紙を書くなどしてお招きをしたそうです。ただ、その当時のとんぼ祭記念講演は12月に行われていた記憶があると、教頭先生は言うのです。そこで例によって記念誌「深志百年」の記載を調べてみると、昭和41年(1966年)の第19回とんぼ祭日程表の中に、次のような記載がありました。
前夜祭(8/31水)、開祭式(9/1木)、ファイヤーストーム(9/5月)、映写会「恐怖の報酬」(9/15木)、 講演会「日本映画の青春の思想」熊井啓「日本列島」鑑賞(12/5月)
当時は、9月初めにとんぼ祭本体が終わっても、12月までとんぼ祭は構成されていると考えられていたことがわかります。ではなぜ、とんぼ祭の一部でもある講演会は12月なのでしょうか。とんぼ祭本体については、「学協各部の最大の発表の場」(第30回とんぼ祭実行委員長談)であるがゆえに、合同協議会にとっては最大の発表の場と、講演会の準備が両立し難いものであったことが予測できます。
【「とんぼ祭記念講演」はいつから9月になったのか】
ここで、新たな疑問が生まれます。「とんぼ祭記念講演」という名称はどこから来たのでしょうか。そして、いつから9月に行われるようになったのでしょうか。とんぼ祭の日程が、それまでの8月下旬~9月初旬から現在の7月に変更されたのが平成9(1997)年ですが、その直前においても「とんぼ祭記念講演」は12月に行われていたようです。(当時高校生として在学していた先生方の証言。)とんぼ祭が1学期に移行して以降は、平成10年代前半の行事予定表を見てみますと、とんぼ祭記念講演は10月後半に位置付けられており、ちょうどとんぼ祭本体の日程と一緒に平行移動した形で実施されていたようです。ところが、平成10年代の後半から20年代にかけて、10月の前半に徐々に移行し、時折9月に実施されるようになります。そして平成25年頃からは、9月の後半にほぼ定着する形で現在に至っています。準備運営を行う合同協議会の皆さんには、準備期間もある程度確保してあげたい一方で、早く受験体制への切り替えをさせたいという学校の意図が伝わってくる気がしますが、明確な理由は不明です。また、生徒の要望が出されていたのかどうかについても、私の手持ちの資料ではわかりません。一方、「とんぼ祭記念講演」という名称は、かつて、とんぼ祭の日程の一部として位置づけられていた「講演会」が、いつのタイミングからか、とんぼ祭の日程からは外れたけれど、とんぼ祭の一部であった時代の名残を背負っての名称であると推測されます。