校長通信
ゆくて遥かに
校長通信

2023年3月8日

第241号 今年度の青燈賞決まる

 図書委員会が作成する「青燈42」が先日発刊されました。「青燈賞」の入選作品が掲載されている冊子が今年度42号となる「青燈」です。深志生が創作した小説、詩、短歌などの文芸作品及び、表紙を飾るイラスト作品が募集され、応募作品を生徒・教員からなる審査員がすべて読み、鑑賞する中で入選作品を決定するのが、この青燈賞です。今年は11の文芸作品、7つのイラスト作品が応募され、4人の教員及び、4人の生徒からなる審査員が審査をしました。教員にとってみると、自分よりも果てしなく豊かで鋭い感性を持った生徒たちの作品を審査するのですから、そのプレッシャーは半端ないものとなります。秋のある日、図書委員長が校長室のドアを開けて入ってきた瞬間、「ついにキタか!」と思わず叫んでしまいましたが、審査を経験したことのある先生方でしたら、その気持ちをわかっていただけることと思います。そして12月の審査会ではまた、白熱した議論が交わされました。先生・生徒を含め一人一人が一個の人格として意見を戦わせる、深志らしい光景の断片です。審査員だってそれぞれの感性や価値観、生きてきた背景が異なるのですから、相容れることは容易ではありません。校長の発言だってなんのその、一刀両断です。1時間くらいで終わると思っていたものが、延々と続いた審査会でした。私自身は、生徒の皆さんの発言や、お若い先生方の解釈やモノの見方が瑞々しくて、枯れてしぼんでしまっていた自分の感性が恥ずかしくなってしまいました。

今年度「青燈賞」表彰式において、受賞者の皆さん。覆面応募者もいますので、全員が参加していませんし、ペンネームでの応募者が多いので、受賞者の方々のお名前は出しません。右上が今回ご苦労いただいた図書委員会審査委員長の2‐1高木晴香さんです。

 さて、今年度第42号の青燈ですが、創刊号は昭和47年(1972年)に発刊されており、ちょうど今年度は創刊50周年を迎えたということになります。その後、時々発刊されない年を経ながら、平成に入るころには毎年安定的に発刊されることとなります。創刊号の巻頭言として、当時の図書委員長の柳沢正孝さんは次のように述べています。

 「混沌・未熟・歪曲の中にある現代高校生の文化的危機に当たり、「青燈賞」は微力をも顧みず、高校生の中に一種の希望の光を投げ込むために設立された。」

 この巻頭言に関し、同年の校友会誌の中で、柳沢さんは次のように付け加えています。当時の生徒会の課題として、文化系クラブの活動が不活発でふがいない、その原因はとんぼ祭以外に発表の場が少ないからであろうと、そんな話し合いが当時の本部役員の中でされていたようです。そのため、「現在の無気力の状態に対し、少しでも希望ある自分の可能性を確かめたいと思っている人たちに確かめる場を与え、自信をつけてもらいたい」と本部が各部署に働きかける中で、図書委員会では文芸のレベルアップを目指し行動を起こしたことが記されています。

 この第1回青燈賞には7編の小説と30数編の詩の応募があったようですが、青燈創刊号に掲載されているのは3編の詩のみで、あとは審査に当たられた先生方の講評だけが掲載された10ページほどの冊子となっています。(42号は148ページ)審査に当たられた藤岡改造先生(校長通信第227号掲載の「揚雲雀」の作者)は講評で次のように述べています。

「集まったのは七編というのも淋しかったが、賞金目当てのヤッツケ仕事、まず心構えの点から、顔を洗って出直してもらわなければならないと思った。ちょっとした思いつきや、米粒程度の文才でどうにかなると思ったら大間違い。(中略)構成はしまりがなく、だらだらと書いているだけ。小説作法の一頁くらい頭に置いて書くのでなければ、話しにならないというものだ。…(この後もあまりに激しいので、ピーッ、後略)」

 さすがに柳沢図書委員長はこれに対して校友会誌の中で、「この結果は一口に不作であったと言うのみではない。その原因の一端は僕らの求めたものが、高校生としては高い水準のものを求めたからであった。実際にこのレベルは長野県高校生文学作品コンクールのレベルより高いのである。」と思いっきりフォローしています。プロの小説家でもあった教員が思ったことをそのまま文章化して言い放ち、それに対し生徒が別の場所でフォローの文章を掲載する、深志生って、おとなだなあ。

 ちなみに、藤岡改造先生は青燈第6号に掲載された第10回青燈賞審査の小説部門選評において、次のように述べています。

「応募された四編はさすがに応募するだけの意欲にふさわしく、すべて水準(とはいってもどこに定めるかは問題があるが、高校生の書いたものとして、あるいは読むに堪えるという点において)に達しているものと思われた。それぞれ傾向が違うのも興味深く、本校の生徒諸君の巾のひろさを示しているように感じられた。」ということで、四編全てが佳作として青燈に掲載されています。藤岡先生が丸くなられたのか、作品の水準が高くなったのか、それはわからないですが、こうなると、創刊号の応募作品を読んでみたい気になってくるのは私だけではないと思います。(叶えることはできませんが。)

左が第2号:昭和50(1975)年、中央が創刊号、右が第6号:昭和56(1981)年